ニサルガ ヨガ (Nisarga Yoga)-10

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ニサルガ ヨガ (Nisarga Yoga)-10

純粋な心-7. 自己認識

 7. Awareness of Self 自己認識 (自己の気づき)

    ニサルガダッタ (Nisargadatta) は、次のように述べています。
    「誤った考えを放棄する、それだけです。 本当の考えは必要ありません。 何もありません。」

 私たちは、すでに私たちがいるものになる方法を学ぶことができません。

 このような方法で、無意識にある前提や思い込み (執着や険悪の感情や考え) を、書き換えます。この方法では、小さな成功体験を繰り返すことで、自信になり確信を持つようになります。

心を制限します

 ニサルガダッタ (Nisargadatta) は、次のように述べています。
「誤った考えを放棄する、それだけです。 本当の考えは必要ありません。 何もありません。」

 

二元性の外観は分離性です

The appearance of duality is separateness. It persists and compels us only as long as we put off questioning it.

Yoga is ultimately the purification and cessation of the restless, limiting mind. Just as our minds can only comprehend the limited, we can only be the unlimited.

Nisargadatta says, “Abandon false ideas, that is all. There is no need of true ideas. There aren’t any.”

We can’t learn how to be what we already are. But we can give the same attention that we give to our small selves (in its many guises), to our true self: boundless awareness.

     二元性の外観は分離性です。それは私達が、それを疑問に思うのを延期する限り存続し、そして私たちは強いられます。

     ヨガは究極的 (最終的) には、落ち着きのない人々の浄化と停止です。心を制限します。私たちの心が、限られたものしか理解できないのと同じように、私たちは、無制限にしかなれないのです。

     ニサルガダッタ (Nisargadatta) は、次のように述べています。
    「誤った考えを放棄する、それだけです。 本当の考えは必要ありません。 何もありません。」

     私たちは、すでに私たちがいるものになる方法を学ぶことができません。しかし私達は、私達が私達の小さい自己 (small selves:小さな自我) に与えるのと同じ注意を払うことができます (その多くの外観の形、外観で)。
     私たちの本当の自己に:無限の気づき (boundless awareness)。

 

注意深い否定について

We can broaden our scope by guiding the observation of our concepts to systematically and wisely see through them.

Doing this can dissolve the “fixed” roles we’ve attributed to ourselves and others, allowing us to appreciate the unity of life.

In my book, I talk about mindful negation:

     体系的にそして賢明にそれらを通して見るために私達の概念の観察を導くことによって私達の範囲を広げることができます。

     そうすることで、私たちが自分自身や他の人に帰属していた「固定された」役割を解消でき、私たちは人生の一致を評価することができます。

     私の本 (Nic Higham 著:Living the Life That You Are) では、私は注意深い否定について話しています。

 

自分自身に尋ねなさい

Ask yourself if your self-beliefs can capture your fullness.

Are you limited to your self-definitions, or are they just finite expressions of your infinity?

For example,
“Am I male?” No, this label doesn’t capture all that I am.

“Am I my age?” No, that’s just a number.

“Am I my name?” No, that was given to me.

“Am I this body?” No, my consciousness seems to transcend this flesh and these bones.

“Do I have a consciousness?” No, not even consciousness defines me; it’s just a word with associated mental imagery.

“From whence does consciousness emerge?” I don’t know, and that not-knowing feels liberating.

“Where does the real me reside?” Here, there, everywhere, and nowhere.

Contemplate this as you exist here, there, everywhere, and nowhere.

     あなたの自己信念が、あなたの満腹感をとらえることができるかどうか、自分自身に尋ねなさい。

     あなたはあなたの自己定義に限定されていますか。それともあなたの無限の、有限表現なのですか?

     例えば、
    「私は男性ですか?」いいえ、このレベルは、私がいるというすべてを捉えているわけではありません。

    「私は私の年齢ですか?」いいえ、それは単なる数字です。

    「私は私の名前ですか?」いいえ、それは私に与えられました。

    「私はこの肉体ですか?」いいえ、私の意識は、この肉とこれらの骨を超えているようです。

    「私は意識を持っていますか?」いいえ、意識さえ私を定義しません。 それはただの精神的なイメージを伴う言葉です。

    「どこから意識が生まれますか?」私は知りません。そして、知らないことは解放的に感じます。

    「本当の私はどこに住んでいますか」ここ、あちらこちら、どこにも、どこにもありません。

     あなたがここ、あちらこちら、どこにも存在しないように、これを考えてください。

 

悟りの段階

     悟りの段階は、ジニャーニの知識を得ることから始まります。

     知識は記憶になります。記憶は、体験になります。
     知識は、種になります。種は、生から次の生へと受け継がれます。
     知識は、種になり、芽を出して、大きく成長して無知を消していきます。
     無知が消えた分だけ、真我の光が現れます。

 釈迦から始まった仏教の上座部では、悟りの段階があります。4つの「果 (成就した段階) 」を合わせて、「四沙門果」(ししゃもんか) と言います。

 さらに、4つの果得 (定) を、「向 (進み入る段階) 」と「果 (成就した段階) 」に分けています。向と果の名称が同じで、八種の段階にある人という意味で、八種の段階のことを、四双八輩 (しそうはっぱい) と言います。

    預流 (よる)

     預流果は、三結(有身見・疑・戒禁取)が絶たれている。

     「虎の口に落ちた獲物が決して逃れることを許されないのとまさしく同様に、グルの恩寵 (おんちょう) を受け取った人は間違いなく救われ、決して見捨てられません
      — ラマナ・マハルシの「私は誰か」より抜粋 —

    参考サイト:
    悟りの段階 1 – 預流 (よる) | 道 (way)・アドオンスポット
    http://way.add-spot.com/wordpress/satori

    預流果になった人は、決して、完全な悟りに向かう道から、退くことはありません。完全な悟りへの聖なる流れに入った、預かったので、預流果と呼ばれます。

     釈迦は、「預流果の人は、天界か人界にだけ生まれ変わり、地獄、畜生、餓鬼界に生まれることは決してない」と言われています。

    預流向 (ヨルコウ) とは、ジニャーニの知識を得ているもの。
    ジニャーニの知識を得ているものとは、ジニャーニの知識を黙想しているもの。

    預流果 (ヨルカ) とは、ジニャーニの知識を実践しているもの。
    ジニャーニの知識を実践しているものとは、毎日、読経をするもの。
    ジニャーニの知識を実践しているものとは、毎日、真言を唱えるもの。

    一来 (いちらい)

     一来果は、三毒(貪・瞋・癡)が薄まっている。

     預流果 (よるか) に達してから、「私がいない、何もない」経験をすると、一来果 (いちらいか) になります。一来果では、有身見、疑、戒禁取の三結は消えています。そして、その他に、欲、怒り、無知の三煩悩が、いずれも弱くなります。

    参考サイト:
    悟りの段階 2 – 一来 (いちらい) | 道 (way)・アドオンスポット
    http://way.add-spot.com/wordpress/satori-2

    一来向 (イチライコウ) とは、ジニャーニの知識を理解しようとしているもの。
    ジニャーニの知識を理解しようとしているものとは、自己同一化を否定しているもの。

    一来果 (イチライカ) とは、ジニャーニの知識を理解したもの。
    ジニャーニの知識を理解したものとは、理解したことから、解放されて、自由になったもの。

    不還 (ふげん)

    不還果は、五下分結(三結+貪・瞋)が絶たれている。

    参考サイト:

    不還向 (フゲンコウ) とは、快楽と苦痛が、消えたもの。
    快楽と苦痛が、消えたものとは、快楽と苦痛の根底にある無知が、消えたもの。

    不還果 (フゲンカ) とは、欲望と恐怖が、消えたもの。
    欲望と恐怖が、消えたものとは、欲望と恐怖の根底にある無知が、消えたもの。

    阿羅漢 (あらかん)

    阿羅漢果は、五上分結(色貪・無色貪・慢・掉挙・無明)が絶たれている。

    参考サイト:

    阿羅漢向 (アラカンコウ) とは、想像を止めたもの。
    想像を止めたものとは、心の働きである記憶の投影を止めたもの。

    阿羅漢果 (アラカンカ) とは、無になったもの。
    無になったものとは、一つを体現して、沈黙へ入ったもの。


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