ニサルガ ヨガ (Nisarga Yoga)-4

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ニサルガ ヨガ (Nisarga Yoga)-4

純粋な心-1. 非識別と正しい理解

 1. Non-identification and right understanding
 アイデンティフィケーション (identification:識別) する力は、正しい理解 (right understanding) へと進めてくれます。

     心 (マインド) は、私 (I AM:私は在る) の中に起こりました。
     私 (I AM:私は在る) は、無 (I am that I am) と同等のものです。
     無 (I am that I am) は、不動 (動くことなく)、不変 (変わることなく)、今の中の永遠です。
     無 (I am that I am) から、私 (I AM:私は在る) は起こりました。
     私 (I AM:私は在る) は、心 (マインド) の中に、気づきという光で現れます。

 このような方法で、無意識にある前提や思い込み (執着や険悪の感情や考え) を、書き換えます。この方法では、小さな成功体験を繰り返すことで、自信になり確信を持つようになります。

1. 非識別と正しい理解

 1. 非識別と正しい理解についてです。

1. Non-identification and right understanding
1. 非識別と正しい理解

 アイデンティフィケーション (identification:識別) する力は、正しい理解へと進めてくれます。

     心 (マインド) は、私 (I AM:私は在る) の中に起こりました。
     私 (I AM:私は在る) は、無 (I am that I am) と同等のものです。
     無 (I am that I am) は、不動 (動くことなく)、不変 (変わることなく)、今の中の永遠です。
     無 (I am that I am) から、私 (I AM:私は在る) は起こりました。
     私 (I AM:私は在る) は、心 (マインド) の中に、気づきという光で現れます。

 「実在 (reality) の誤解を修正するための唯一の方法は、自分の心のあり方を完全に認識することです。そしてそれを、自己発見の道具に変えることです。」
 – モーリス・フリードマン

 「まず、あなたの空想 (夢想、想念、ビジョン:vision) を浄化します。凝視する (staring) のではなく (見つめる代わりに)、見る (see) ことを学びます…」
 – ニサルガダッタ・マハラジ

参考:ニサルガ ヨガ (Nisarga Yoga)-3
http://add-spot.com/wordpress/nisarga_yoga-3

注記:実在と非実在 (実在でないもの) を識別できるようになります。
 常に自分の心 (思考と感情、思いと気分) を観察 (内省、観照) して、実在と非実在 (実在でないもの) を識別します。
 「これは、私ではない。私は、誰か?」と自問します。

 

神とグルとは異なるものではない

 ラマナ・マハルシの言葉からです。

 「実際は、神とグルとは異なるものではない。

 トラの顎にくわえられた獲物に逃れる術がないように、グルの慈悲深い眼差しに捕らえられた者は、グルによって救われ、見捨てられることはないだろう。

 けれども、一人ひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解脱に達しなければならない。

 人はただ自分の智識の目によってのみ、自分自身を知ることができる。ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?

 「グル (霊性の師) は、身体的形態ではない。それゆえグルの身体が消滅したあとも、心の繋がりはそのまま残る。

 グルが死んだあとに、別のグルのところへ行くこともできる。だが、全てのグルは一つであり、その中の誰ひとりとして身体であるものはいない。

 それゆえ、常に精神的なつながりが最上である。

注記:常に精神的なつながりが最上である。
 「ヴィヴェーカーナンダ」の心の中には、常に師である「ラーマクリシュナ」がいました。

 「信者から礼拝を受けた神は、彼に揺るぎない信仰を授け、明け渡し (全託、お任せ) へと導いてゆく。

 自己を明け渡した信者に神は慈悲を注ぎ、自らグル (霊性の師) の姿を取って彼の前に現れる。

 神であるグルは信者を導き、『神はあなたの内に在る。その神こそが真我である』と伝える。

 これが心を内面に向け、最終的には実現へと導くのである。

 「神がその姿を現そうと消え去ろうと、彼の御心に従い全てを明け渡しなさい。神の計らいに任せなさい。

 もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく命令である。神をあなたに従わせておきながら、『自分は明け渡した』と考えることはできない。

 神は何が最善であり、いつ、どのようにするべきかを知っている。彼に全てを完全に任せなさい。

 重荷は彼のものだ。あなたはもはや、何の心配もしなくていい。あなたの心配はみな彼のものなのである。

 明け渡しとはそのようなものだ。これがバクティ (神への愛) である。

 「もしも明け渡しが不可能なら、何ができるというのだろう?

 それでは心の平和はない。あなたに平和をもたらすことはできない。

 ただ明け渡しによってのみ、それができるのである。

 ―ラマナ・マハルシ

 

注意を過小評価してはならない

 ニサルガダッタ・マハラジの言葉からです。

「I Am That」ニサルガダッタ・マハラジ 31 – 注意を過小評価してはならない より

 質問者:「あなたは、『私は在る』に集中するようすすめましたが、これもまた、一種の注意力なのでしょうか?」

 マハラジ:「その通りだ。分割されない注意を、あなたの人生の中の最も重要なもの、あなた自身に与えなさい。あなたの個人的な宇宙の中心が、あなたなのだ。中心を知らずに何を知ることができるだろう。」

I Am That ニサルガダッタ・マハラジ100 理解は解放へと導く より

 質問者:「私は、在るがままの私を知っているとは、どういう意味でしょうか?」

 マハラジ:「マインドが現れる以前に、私は在る。私は在るは、マインドの中にある一つの想念ではない。マインドが、私に起こるのであって、私が、マインドに起こるのではない。そして、時間と空間がマインドの中に存在するため、私は時間と空間を超え、永遠で普遍なるものなのだ。


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